「1991年、1999年ともに聖杯戦争が行われた記録は、ない。」
すら、とページがめくられる音とともに、そう告げられる。
「…やはりな。」
はぁ、と詰めていた息を吐く。事実が認められたことの安堵のようだった。
「もしかしたら何か秘匿文書の中にあったりするかもしれないけど、権限がないから見れないんだよなぁ。」
マスターはうーん、とうなる。その様子に、はは、と笑ってそこまでする必要はねぇよ、と言った。
「でも、プロト。」
なおも食い下がろうとするマスターの頭をぽん、と強めになでてぐしゃぐしゃと髪の毛を混ぜ返した。
「わわ、やめてよ!」
「ありがとな、マスター。すっきりしたわ。」
手櫛でぐしゃぐしゃになった髪の毛を直しているマスターに背を向けて歩き出す。
「プロト!」
呼びかけられて、少し足を止める。
「えっと、うまくいえないけど、その。大丈夫、大丈夫だよ。世界は思うほど残酷じゃない。」
上半身だけ振り返って、は、と笑う。
「あんたがそういうんじゃあ、そうなんだろうな。」
残酷な運命を課せられたあんたが言うなら。
自分はかつて召喚されたときの記録と記憶を持っている。
今のマスターとは違う、前のマスターと過ごした記憶。暮らした屋敷やマスターのこと、すべて。
確かに覚えていないところやあいまいなところもあるが、それでも、かつてマスターとして契約した彼女のことをはっきりと覚えている。その、人間としての終焉も。
今でも思い出してぞっとするのだ。すべて終わったことではあるが、それでも。
だが、此度の召喚において、見知った顔は幾人か見たが誰もその記憶を有していない。また記憶を持っている奴らの話を聞くと、どうも、話が違う。
最初に気がついたのはマシュの話からだ。初めてマスターが修復した特異点F。2004年に聖杯戦争が行われたという土地。
2004年に行われた、というのにひっかかりを覚えた。確か自分が召喚されたのは1999年。さらにその8年前に一度聖杯戦争は行われいたはずだ。8年、5年、と、周期が短すぎはしないか。そもそも、1999年に聖杯の存在のあり方がその根底から狂っていたのが白日の下に晒されたのではなかったか。あの戦いの後に、聖杯戦争を行う意味が、ない。
どういうことだろうか、という疑念がさらに膨らんだのはエミヤと話をしていたときだ。年食った俺が面白半分でエミヤを酔いつぶしたのだが、後の処理をコチラに押し付けてきやがった。エミヤは眠たそうに目をぱちぱちとさせながら、ヘラヘラ笑ってブーディカやマシュと楽しそうに料理の話をしていた。
部屋に帰るぞ、お前一人じゃ歩けないだろ、と肩を貸してやれば素直にありがとう、といってきたので悪い気はしなかった。部屋への帰り道に、エミヤが生前マスターとして聖杯戦争に参加したことがあるということを知った、それもあの冬木の聖杯戦争だという。ということはつまり、その前後に聖杯戦争があったことを知っているのでは、と1999年の聖杯戦争について聞いてみた。
エミヤは首をかしげた。
「私の知る限り、まぁ凛が話してくれたものも含むが、私が参加したのは2004年の第5次、その10年前に第4次があっただけだ。第4次も1999年、ではないが。年号間違いではないのかね?」
君は強いからなぁ、いろんな形で聖杯戦争に参加しているのだろう、という。
あぁ、違う。違うのだ、俺が知りたいのは、「1999年の聖杯戦争」なのだ。
「年号間違いかねぇ。ってか、リンって誰だよエミヤさんよ。まさか妻か?そうなのか?」
「つっ…?!違う、凛は私の師匠だ…!」
「へぇ師匠を下の名前で呼び捨てねぇ?お前さんの性格からしてそんな風に呼ぶなんて怪しいと思ってなぁ?」
「…勘繰ってもこれ以上でもこれ以下でもないぞ。」
「どうだかな!」
続きを聞くのが怖くて、話題をそらす。確かに俺は、召喚されたのだ。マスターに。…美沙夜に。
でも、逆に納得できるような気もしたのだ。
このカルデアには、年を食った俺がいる。ランサーとキャスターの二つのクラスで現界している。その二人は確かに同一人物だと思えるのだが、自分とは、年齢の差のせいというには違和感がある。自分にも自分の死に際の記憶はある。生前の記憶も、二人と相違はないようだ。だけど、何か、違う。明確になにがどうとはいえない、が、俺は、二人とは違うのだ。
つまり、自分たちは同じ「クー・フーリン」の名を冠しながらも、別人、なのだろう。
そこで冒頭に戻る。
マスターに、自分が召喚されたであろう「1999年の聖杯戦争について教えて欲しい」と言ったのだ。
結果はご覧のとおり。
俺は「存在しない聖杯戦争に召喚されたサーヴァント」である。
特異点を修復した結果消えてしまった世界かもしれない。そもそも自分が知っている世界は存在しないもので、自分が覚えていると思っているこの記憶は聖杯によって捏造されたものかもしれない。
それを証明できるものを俺は何一つ持ってはいない。この記憶と記録を、1999年の聖杯戦争を、証明できないから、ないも同然なのだろう。
なんて、曖昧な。
悲しくないわけではないし、不安がないわけじゃない。
ただここに呼ばれた理由は、「世界を救うため」であって、己の存在のどうこうをたしかめる為ではない。
だけど、少しの間でいいから一人になりたかった。誰にも会いたくない。
資料室から最短ルートでダヴィンチの工房へ赴き、レイシフトをしたいと申し出た。
できれば静かな森がいい、といえば、理由も聞かずにいいよ、といってくれた。お礼は絵のモデルでいいから、と不穏なことを言われたが、なんでもよかった。時間が欲しかった。
レイシフトした先は、故郷に程近い場所の森だった。
静かで、厳かで、干渉はしてこない。ただそこにいることを許してくれる、そんな森だった。
ざくざくと歩くと近くに泉があった。動物が穏やかにそこで過ごしていた。気配をできる限り薄くして、警戒されないように近づく。何匹かはこちらを見たが、それでも彼らもこちらに敵意がないことを悟ると、一定の距離をあけてその場にいることを許してくれた。
ほとりの大きな木に背中を預けて座る。そうして、はぁ、と息を吐いた。
背中に木の温もりを感じながら、キラキラと揺らめく水面をただ呆然と眺め、体の力を抜いた。ぐったりと木にもたれかかってまどろむように目を閉じる。
ここがどういう世界で、自分がどういう存在なのか。英霊という人としての輪廻から外れてぐるぐる回るこの身なのだ、そんなことを考えたところでどうともならない。結局この世界にも用事がなくなれば座に還るだけの存在だ。自分とこの世界との関わりを、無理に結びつける必要はない。
もう考えるのが面倒だ。
正直に言えば不安なのだ。自分という存在が揺らぐような、そんな心持。
自分の記録にも記憶にも自信が持てなくなった瞬間、こんなにも不安定になるのかと自分でも笑ってしまう。
もう何も考えたくない。疲れてしまった。
このまま眠ってしまえば、もしかしたら。
「……し……もし………サー……らんさー…」
誰かが呼ぶ声がする。こちらのことをランサーと呼ぶ、誰か。
重たいまぶたを開く。柔らかな日差しですら今の自分にはまぶしかった。
「あぁ、やっぱり。」
目の前に、顔。近すぎて理解が遅れる。が、「顔」だと認識してびくっと自分でも大げさだと思うぐらいに肩がはねた。
「あ、お、まえ!」
その顔には見覚えがあった。忘れることなど、忘れたことなどない。自分の霊基に刻まれているのではと思うほど、鮮烈な記憶。聖杯を奪い合った関係で、あぁなんのしがらみもなく戦うことができればどれほど、と思うほどに焦がれた相手。
「…聖剣、使い。」
クラスで呼ぶのはなんとなくためらわれた。すっかりカルデアに毒されてしまったなぁとこの状況を理解しようとしない脳みその大半がそう思わせる。
「その名で呼ばれるのは久しぶりだよ、ランサー。」
空が溶けたような青色を映し込んだエメラルドグリーンの瞳が細められる。彼は至近距離でこちらをのぞきこんで笑っていた。
「お前、どうして。」
これは夢なのではないだろうか。都合の良い夢。サーヴァントは夢を見ない、なんて実は迷信だったのではと思うほど、精巧な。
「どうしてもこうしても、それはこちらの台詞だよランサー。君はどうしてこんなところで一人でいるんだい?君を召喚したマスターは?今この世界では聖杯戦争は起こっていないはずだ、どうして君が現界しているんだ。」
まくし立てるようにそういう。顔は以前近いままだ。整った顔が迫ってくると、同性だろうとこんなにドキドキするもんなんだなぁ、とやっぱり脳みその大半は役に立たない。
「ちょっとまて、ちょっとまてよ。そのままそっくりお前にその言葉を返すぜ?お前だって一人こんな森で何してんだ。」
ぐい、と聖剣使いの肩を押して顔を離す。そこで彼はようやく距離が近かったことに思い至ったようだ。すこしばかり顔を赤くしてこほん、とわざとらしく咳をした。
「僕は世界を旅していたんだ、事情があってね。」
がしゃん、と鎧が音を鳴らす。彼の後ろの泉をみれば、先ほどまでいたはずの動物たちは姿を消してしまっていた。無粋な奴だ。
「へぇ、事情ねぇ。」
彼のことだ、ろくでもない事情だろう。騎士たるもの、と騎士道を盾に本音を隠すのは得意な奴のいうことはよくわからない。
「そういう君は?」
「俺も、召喚されたマスターと一緒に世界旅行だ。」
うそは言っていない。日本から始まったという旅行だが、フランス、ローマ、不思議な海、アメリカ…と世界横断旅行の真っ最中だ。いつか終わる旅、今度は最後まで付き合ってやりたい。
「へぇ、世界旅行とは楽しそうだ。」
彼は頬を緩ませてわらう。
「お前だって世界を旅してるんだろう?」
そういったのは彼自身の癖に、うらやましそうにいう。
「一人でするのと、誰かと一緒なのは違うだろう。」
さも平然とそう、言ってのけた。今、彼はなんと?
「一人で?」
たった一人でこの世界を旅していたというのか。
「そうだね、一人だ。僕もいろんな世界を旅した。なかなかに楽しかったよ。」
目を伏せる。そうだ、バツが悪かったり嘘をつくときは決まってこいつは視線を下に泳がせる。
「うそつき。」
考えるよりも先に言葉が出る。
「楽しいだなんて感じてもねぇくせに、よくぞまぁぺらぺらと嘘がつけるもんだ。」
「失礼な奴だ。君は人を信じるということを知らないのか?犬の方がもう少し賢い。」
「お前こそ失礼だな、そもそも犬は賢いぞ、てめぇがアホなだけだ。」
「なんだと。」
「あぁ?やるか?」
がっと奴が手を出してきたので、その手をがっちりとつかむ。ぎりぎりと押し合いが始まる。体勢的に、奴が上から押さえつけるようにしてくるのでこちらが不利だ。どうしたものか、と考える。奴は右ひざだけを着いた体勢のようだ。ふと思いついた方法ににやり、と笑う
「余裕だ、なっ?!」
押し合いをしている腕から一気に力を抜く。向こうは驚いたように前につんのめってきた。そこで力をこめなおして左腕をぐわりと上に持ち上げる。さらに体勢を崩した奴の立っていた左足の足首あたりを目掛けて右足を蹴りいれる。目論見通りきれいに右回転を決めた奴に手をそのまま引っ張られ、一緒に転がる。右に倒れこんだものの倒れたところが僅かに傾斜がかかっており、奴はバウンドするように右半身をしたたかに打ち付けてから仰向けになるように倒れる。俺は手をつないだままだったのでそれに引っ張られるように、奴にのしかかるような体勢で倒れこみ、やつがぐぅ、と声をあげた。
「俺の勝ち。」
と顔を上げれば、先ほどよりも近い距離に、奴の顔。何が起きたかわかりません、とでもいうように、まん丸に見開いたそのグリーンの瞳にくつくつと笑いが込みあがる。
「間抜け面だなぁ、セイバー。」
奴の手の脇に両手をついて上体を起こす。ぱちくり、と瞬きをして、じとりとコチラをにらんできた。
「君が悪い。」
「俺の挑発にのったお前も悪い。」
にぃ、と笑えば、不服なのかむすり、と口をへの字に曲げた。それがおかしくて、はは、と声を出して笑う。
「てめぇは、俺のこと覚えてるんだな。」
思わず口をついて出た。泣きそうだ。
「…覚えているとも。君が僕のことを覚えていてくれたように、片時も忘れることなどなかったよ、ランサー。」
伸ばされた奴の手が頬に触れた。ひどく暖かい。あぁ、大丈夫。またもう一度立てる。
「ありがとな、セイバー。」
「こちらこそ。」
セイバーはようやく笑った。こちらも、ようやく、笑えたような気がした。
「で、お前は一人で旅をしているのか。」
あれから、大きな木を背もたれに二人でいろんな話をした。といっても、セイバーは言葉すくなにぽつぽつと話すだけだったから、大半、こちらのカルデアの話だったが。
「そうだよ。ちょっと探し物をね。」
「へぇ、で世界中を探し回ってるわけ。」
「うん、そう。」
奴は、そういったっきり黙ってしまった。
「なぁ、セイバー。」
「何。」
「お前はどうしてこの森に来たんだ?」
最初の問い。世界を旅していたら、そりゃこの辺も通るのかもしれない。
「あー、うん。そうだなぁ。」
やつははは、と笑う。そして目を伏せた。うろうろと下を見て、それから観念したように目を閉じて、静かに息を吐く。
「ちょっと疲れた。」
ゆっくり目を開いて、目の前の泉を見る。静かに二人で話しをしている間に、動物たちは戻ってきたらしく、水浴びをしたり、のんびりと水を飲んだりしている。
「一人で旅をするのも悪くないんだけどね、ちょっとだけ、疲れてしまった。」
彼は体育座りをして、ぎゅうと縮こまった。そんなに大きくはない体をぎゅうと抱きしめるように小さくなった。
「少しだけ休憩しようと思ったら、この森があったんだ。誘われるままにふらふら歩いてたら、君が、そこで寝ていたものだから―――」
どんどん声が小さくなって、最後は聞き取れなかった。それでも、自分を見つけてくれたことが嬉しかった。
「俺もな、ちょっと疲れてた。で、この森に休みに来たんだ。このまま、消えてしまうのかと思うぐらい、疲れてた。」
魔力はある、が、自分の存在そのものが危うくなった。自分が現界をこの世界で保てるかどうかと、そこまで不安定だったのだ。
「君も、疲れることがあるのか。」
「あのなぁ、俺をなんだと思ってるんだよ。」
彼はふぅん、と興味深そうにいうから少しばかりあきれた。
「クー・フーリン。」
不意に真名を呼ばれてドキリ、とする。
「あの名高き、アイルランドの光の御子。数々の武勇を打ちたて、戦士として生きた、美しいまでに気高き人。」
深い緑の目がこちらを捕らえる。息が詰まる。
「知っている、君の真名を。聖杯から与えられた知識よりも、なによりも、君は、君の事はとても、すばらしい人だと、知ってるよ。」
細められた目と、僅かに浮かぶ笑みが、恐ろしいほどまでに美しくて声がでない。
「クー・フーリン。君にあえて本当に良かった。」
澄み切った声だった。森に奪われてしまうほど、その言葉は澄み切っていて。
「俺も、お前に。アーサーにあえて。」
あぁ、また泣きそうだ。どうしてこうまで感傷的なのだ。
「アーサー。」
これは夢なのだろうか。夢だとしたらなんて世界は残酷なのだろうか。なぁマスター、お前は世界は思うほど残酷じゃないといった。でも、でも。
「お前は行ってしまうのか。」
立ち上がった彼に釣られて立ち上がる。ぱさぱさ、と土をふるっている姿を見るに、用事も済んでしまったのだろう。
「…そうだね。」
彼は笑う。
「ねぇ、ランサー。」
呼びかけられてゆっくりと顔を上げる。
「僕さ、星の聖剣使いって呼ばれてるんだ。」
彼は、笑う。
「星は旅人の道導。君が僕の星になってくれるというのなら。」
彼は片膝をついた。恭しく俺の左手を取って、そっと、手の甲に口付けを落とす。
「必ず、君の元へ。」
そういうと、彼はすばやく立ち上がって背を向けた。
「…ちょっと道には迷うかもしれないけど。それでも、いいかい?」
後ろから見える耳が赤い。はは、と、笑いが漏れる。
「もちろん、もちろんだともアーサー。誉れ高き騎士道の華、輝けるブリテンの王よ。」
彼が振り返る。
「貴公が望むのであれば、我が名クー・フーリンに掛け、貴公が進む道の導とならん!」
高らかに、宣言する。名乗りを上げるように、戦いに挑むように。
「だからさっさときやがれ。」
最後は自分でも聞こえるかどうか、それぐらい小さな声だった。
「あぁ、必ず。」
彼は笑う。笑ってくれた。それだけで十分だ。
カルデアでは、新しいセイバーが来た、と大騒ぎになっていたことを、このときの俺はまだ知らない。